6 YEAR ANNIVERSARY!
本日2月6日に、ブルーボトルコーヒーは日本上陸6周年を迎えました。
6年前の2015年2月6日、雪の予報すら出ていた寒空の中「ブルーボトルコーヒー 清澄白河ロースタリー&カフェ」(現 清澄白河フラッグシップカフェ)は多くのゲストが朝早くからお待ちいただく中、オープンいたしました。
オープン前のレセプションでは、地元の方がご好意で、近くにある着物店のみなさまにお声がけくださり、USメンバーに日本を体験してもらおうと、ボトルのロゴの家紋の入った着物を着付けをしてくださいました。
カリフォルニアのファーマーズマーケットにて始まり、日本の喫茶店文化に魅了されながら発展してきたブルーボトルコーヒーにとって、日本進出はとても大きな意味を持っています。
本日のブログでは、6年前のオープン日にも立ち会ったブルーボトルコーヒー創業者であるジェームス・フリーマンと、現会エグゼクティブ・チェアマンであるブライアン・ミーハンより、6年間を振り返りブルーボトルコーヒーにとってアメリカ国外で初出店であった日本進出が持つ意味、そして日本のみなさまに向けたメッセージを紹介させていただきます。
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Two Helicopters
2008年に、私の友人でありコーヒーのメンターである日本のUCCのジェイ・エガミ氏が、私を1日で東京の8つの喫茶店に連れて行ってくれました。彼は喫茶店について前もって教えてくれていましたが、私はその日こんなにも高い次元のおもてなしと技術を経験することになるとは予想だにしていませんでした。
その当時、私はサンフランシスコにブルーボトルの最初の屋内カフェと呼べるミントプラザカフェをオープンし、主に日本のコーヒーツールとテクニックをアメリカのサードウェーブコーヒー文化にもたらしたということに関して、それなりに評価を得ていたところでした。ポジティブなプレスの掲載に支えられて、私はコーヒーを淹れることがとても上手になり、何かとても重要なことを成し遂げたと思っていました。
ですが、それらの幻想は東京であっさりと消え去りました。その日の体験は私の自信を打ちのめしたものの、同時に希望を残しました。喫茶店のマスターの静かな妙技を目の当たりにして、私は自分のコーヒーの技術が浅はかであったことに落胆し、学ぶことがまだまだあるということがわかりました。一方、その学びの中で、私は自分の仲間を見つけたのです。
その後、私は年に3、4回も日本に通うようになりました。ブルーボトルが日本でよく知られるようになると、昔ながらの日本のカフェに行くのが好きな、コーヒーに詳しい変わったアメリカ人男性として、私は認識され始めました。
喫茶店は私に深く永続的なインスピレーションを与えてくれました。そして私は、東京でブルーボトルを開くことを夢見始めたのです。
2012年、ブルーボトルは米国で最初の大規模な投資を受けました。私はその時、新しいパートナーや投資家と、自分たちの資金で日本へカフェを出店することについて話しました。ライセンス契約でも合弁事業でもなく、私たち自身が運営するカフェの出店です。その頃ある友人が、東京の東の静かな場所にある、近代美術館と美しい公園の近くにある手頃な価格の倉庫を教えてくれました。私はすぐにこの場所に間違い無いと感じました。そして、デザインにおける、規律とストーリー性のバランスに関して、私が信じているのと同等にそれを追求している建築家に出会うことができました。数年かかりましたが、パズルの全てのピースが揃った時、私たちは躊躇しませんでした。リースにサインをして、カフェの工事を始めました。
東京のブルーボトルでも、オークランド、サンフランシスコ、ブルックリンのカフェと同じ、本物のブルーボトル体験を提供することは私にとって重要なことでした。私たちは東京とサンフランシスコベイエリアを頻繁に行き来し、ロースター、バリスタ、マネージャー、シェフのトレーニングを行いました。すべての努力と投資は、「常に最善を尽くす」という私たちの信念として、その後の日本におけるビジネスにも活かされています。
トレーニング、設計、工事が数ヶ月続くにつれて、日本のメディアからの関心が高まってきていました。驚いたことに、関心が非常に高まり開店の数日前には、私は待ち受けていた記者の方から質問を受けずにロースタリーの近くことすら難しい状況でした。しかしそれはすべて、当時の日本の広報責任者であり、現在はブルーボトルのチーフ・ブランドオフィサーである井川 沙紀によって細部にわたって計画されていました。
オープン日の前夜ロースタリーで長い夜を過ごした私は、オープン当日の午前6時に静かにカフェに戻った際に、寒さの中で私たちが開くのを待っている最初のゲストの列を見てとても驚きました。時間が経つにつれ、私たちのオープンを心待ちにした100人近い人々が集まり、列はカフェのずっと先まで伸びまていきました。TVレポーターや記者が、近所の人、ゲスト、スタッフ、さらには横断警備員にインタビューしていました。私は井川と一緒にカフェから出て、目の前に広がる光景に驚きこんなことを言いました。「何が起きているのか信じられないよ、こんなに多くのゲスト、カメラ、ニュースレポーターまで!ヘリコプター以外すべてが集まっているじゃないか!」すると彼女はこう訂正したのです。 「ジェームス、実は2機の報道ヘリコプターも来ていたんですよ」
もちろんそのころの熱狂は楽しかったですが、それよりも日本チームがその後6年間に及びビジネスを大切に築き上げてきたことをもっと嬉しく思っています。私たちは簡単にごく一時的なトレンドになり得たかもしれません。ですが、並外れたチームの想い、勤勉さ、リーダーシップのおかげで、私たちは素敵なカフェを作り、たくさんの日本の方々のコーヒーライフの大切な一部となることができ始めたのではないかと思います。
James
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Message from Bryan Meehan
2020年は家でとてもたくさんのコーヒーを淹れた1年でした。私のルーティーンは、朝にスリー・アフリカズまたはベラ・ドノヴァンをケメックスで淹れ、それを家族とシェアし、午後にシングルオリジン(ドリップ)を楽しむことでした。ヘイズバレーのカプチーノかオーツミルクで作る抹茶ラテまで、次第に家族からのリクエストが追加され、2020年は間違いなく私のバリスタスキルを磨き上げた1年となりました。常に時間をかけてコーヒーのテイスティングノートをとり、焙煎からの経過日数と挽き目の粗さ+細かさがコーヒーの品質に与える影響を実感しています。特に、焙煎後10日未満のシングルオリジンのドリップを飲むことはめったにありません。通常、焙煎後10〜15日のものが私の好みです。
自宅でコーヒーを淹れ、楽しむという行為は、6年前に、日本市場に参入したことで自身が感じられるようになったことの1つです。日本のゲストは、自宅で美味しいコーヒーを作るために最適な道具に対して大きな関心を持っており、清澄白河などのカフェでゲストに提供しているトレーニングセッションに関心を持ってくださっていることを嬉しく思い、たくさん刺激と学びの機会をいただきました。
私はいつも2月には日本へ旅をし、私たちの日本の最初のカフェ、清澄白河のアニバーサリーを祝うことが慣れ親しんだ毎年のイベントになっています。悲しいことに、コロナウイルスの拡大により私は2020年1月以来日本を訪れることができていません。私は、カフェを訪れて、バリスタやチーム、ゲストの顔を見ることをとても恋しく思っています。
幸いなことに、私は日本の建築家である長坂常さんに設計をお願いした日本を感じることのできる美しい家に住み、週に一度日本語のレッスンを受けています。レッスンは私に日本での時間を思い起こさせ、実際にそこに行かれないことの悲しみを和らげてくれます。さらに、娘のイブは、味噌汁、寿司、ラーメン、そばの作り方を学び、料理のスキルを高めました。これらの料理は私が日本で好きな数あるものの一部ですが、もちろん素晴らしい純米酒と一緒だとなお最高です!また、スノーピークのタキビファイヤー&グリルとウィンタージャケットも購入しました。ですので、後は日本に旅することが許可されるのを待つのみです。私たちは皆、その日を迎える準備ができていますから。
Please all stay healthy and well and see you soon
Matane
Bryan
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ジェームスとブライアンからのメッセージをご紹介させていただきましたが、いかがでしたでしょうか?
6年間支えていただいたゲストのみなさまにこれからも美味しいスペシャルティコーヒーやペイストリーをお届けできるよう、7年目も私たちは日々デリシャスネスを追求し、ワクワクするような新たな試みをご紹介できればと考えておりますので、今年もみなさまとカフェやオンラインストアでお会いできることを楽しみにしております。
これからも、私たちブルーボトルコーヒーをどうぞよろしくお願いいたします!