ひとが作り上げるもの。役者からバリスタへ。

私は、国内外で役者として活動したのち、未経験でコーヒーの世界に飛び込みました。

清澄白河にアメリカのコーヒー屋さんができる。と聞いた瞬間に「ここで私働くんだな。」と思ったのです。当時の私は、ブルーボトルコーヒーのことを何も知りませんでしたが、その想いになんの迷いもありませんでした。不思議ですよね。

役者とバリスタ、どちらの世界にも共通して思うのは、「素晴らしい作品を世界に届けようとするチーム」がいるという点です。もっと言うと、そこには作品があり監督がいて、演出家や音声さん、美術さん、ロケハンやケータリングの方達がいて、やっと役者がその作品を「いきる」ことができます。

カフェでいえば、それは農園であり生豆のバイヤーであり、キッチンスタッフ、本社の人事や経理担当者、デザイナーなどたくさんの方々が私たちの「作品」、そしてそこに込められた「メッセージ」を1人でも多くの人々に届けたいとがんばってくれていること、そしてその仲間の想いを最終的にバリスタが精一杯体現しているのと同じだと感じているのです。

だからこそ役者もバリスタも、自らの覚悟とたくさんの人のおかげで輝くチャンスをもらえているというある種のプレッシャーをもって望まなければなりません。演劇もカフェも、お客さまが時間とお金をかけて足を運んでくださいます。

自分が舞台を観に行ったのなら「あぁ、この作品を選んでよかった」「またこの人の作品観てみたいな」「誰かにおすすめしたいな」そう思えるものであって欲しいと思っています。その気持ちを持って、常にカフェにも立っていました。

昔、あるハリウッドの有名作品に関わった方から聞いたお話があります。その作品のあるシーンで、撮影中に涙が出るほど素晴らしいシーンがあったのですが何百人のエキストラのうちの”1人”がそこに「いきていなかった」と言う理由で止む無くカットになったと。役者に「小さい役」も「大きい役もない」その作品のには全ての人間が必要不可欠なんだと。

私はこの言葉を今でも大切にしています。

スターが輝いてるから自分はうわの空でも大丈夫、なんてことは絶対ないんです。と同時に、監督や演出家の意見を無視して作品を独自の解釈だけで演じたり、自分の技量だけを見せつけようとするのでは、その作品は不協和音を感じるものとなってしまうのです。

どの部署でも、カフェに立っているどんな時も、どんなポジションでも誰一人欠けてはいけない登場人物なのであり、大切なものを大切にしてそれぞれの個性を活かしつつも同じゴールに向かっているべきだと思っています。

機械であらゆることができる便利な時代にもなって来ましたが、バリスタ/ひとがいる意味は、「想えるこころ」があるということではないでしょうか。相手を想えたり、天気や季節の変わり目を感じられたりできる人間だから表現できるものがあると私は思っています。

だからこそ入社当時から変わらず「人を中心」に考えているブルーボトルコーヒーが、私は好きなんだと思います。そして今日もこの作品の何章目かの物語、時にスピンオフの様な物語を仲間と共に作るのです。

 

TRAINER/ M.S